中東情勢(イラン革命~イラク戦争)を簡単に分かりやすく解説します

ご承知の通り、現在の社会のシステム基盤はキリスト教をベースとした欧米文化で形成されております。

 

しかし、今や世界のほとんどの人々が当たり前として疑うこともしないこの前提に染まることなく独自の路線を歩む地域があります。そう、中東地域です。

 

中東地域は、イスラム教をベースとした独自の世界観を貫ぬいているように(僕には)みえます。彼らの体制は、アメリカをはじめとする現在の社会秩序の既得権益者による様々な反対工作を受けながらも、今なお生き延びております。日本でも、アメリカに従わないと国が滅びるようなことが考えられていますが、中東世界はそんな僕らの常識を覆し今も生き延びているという生きた一例と言えます。

 

そんな中東ですが、核兵器の開発やテロへの介入疑惑など物騒でとても強く恐いイメージがあると思います。

 

この記事では、現在の中東世界の始まりとも言えるイラン革命イスラム革命)とそれ以降の中東の情勢について出来るだけ簡単にわかりやすく解説していきたいと思います。

 

それでは、よろしくお願いいたします。

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「アラブ」、「中東」について

まず、はじめに「アラブ」、「中東」の違いを明確にしておきましょう。
僕にとって、何だかとってもややこしかったので(^_^;)

 

アラブ:アラビア語を話す人たち
中東:その昔、イギリスでは東はインドを指していました。そのため、イギリスとイン
   ドの間を「中東」と呼びました。これは、とてもざっくりした概念ですね。

 

ちなみに、イスラム教の聖典コーラン」の原典はアラビア語で記されているので、アラブ人にイスラム教徒=ムスリムは多いです。でも、全員がムスリムという訳ではないんですよ。キリスト教徒のアラブ人もいます。
これは、関西弁の人でも巨人ファンがいるようなものですかね。

 

ちなみに、アラブに隣接する国だけど以下の国はアラブには含まれません。

 

トルコ: トルコ語を話すから
イラン: ペルシャ語を話すから
イスラエル: ヘブライ語を話すから
アフガニスタン: パシュトー語(ダリー語)を話すから

 

アラブにこれらの国を加えた地域の総称を中東と呼びます。つまり、中東の方がアラブよりも広域を示すことになるんですね。

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イラン革命(イスラム革命)について

①革命前のイラン

かつてのイランは今と違って、シャー(古代ペルシャにおける「大王」の呼称。一般的には、国王などと呼ばれる)が支配する王政の国でした。

 

また、当時は東西冷戦下でもあり、イランはアメリカ側に加担していました。1955年に発足した反共軍事同盟「中東条約機構:METO」にも参加しました。

 

そして、親英・親米のパフラヴィー2世のもとで近代化政策が推し進められていきました。その結果、経済は成長しましたが、貧富の差が広がり、支配層も腐敗していき国民に不満が高まっていきました。

 

この近代化政策は、「白色革命」と呼ばれて、王権による上からの強制的な西洋化・近代化であり、宗教団体や民族主義者などの反感を買うことになりました。
ちなみに、このような反対勢力は秘密警察に弾圧され自由を封じ込まれます。

 

こうした抑圧された状況下のもとに不満が高まり、パフラヴィー体制は革命を招くことになります。

 

イラン革命(イスラム革命)

対米従属の度合いを増していく状況に対し、イスラム教(イランのシーア派)の信仰に立ち返るべきだという民衆の反発が強まりました。王政を批判し国外に追放されていたシーア派最高指導者のホメイニが国外から反政府活動を指導し活動をしました。

 

1978年、ホメイニを誹謗する記事が新聞に掲載されると聖職者に指導された学生や労働者、農民、市民が反政府デモを起こし、王政に反対する動きが本格的に全国に広がりました。

 

そして、遂に1979年1月にパフラヴィー2世は国外に脱出、王政は崩壊します。
そして亡命先のフランスのパリからホメイニがイランに凱旋帰国をします。
それから、親米路線から180度舵をきった新政権が樹立されイラン=イスラム共和国が成立します。ここからは、裁判ではシャーリア(イスラム法)が適用されるなど、宗教色の強いイスラム教を理念とした政治体制となります。

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イラン=イラク戦争

ホメイニ師を最高指導者とするイラン新政権は、反共軍事同盟「中東条約機構:METO」から脱退をするなど反米路線を進んでいきます。

 

このイラン=イスラム革命は、近隣国にて、イスラムシーア派系)を触発することで自国でも革命が起きやしないかという大きな不安をもたらすことになります。
そんな中、イランの隣のイラクではサダム・フセインが大統領に就任します

 

彼は、古代この地域にあった「新バビロニア」のような帝国を作りたいという野望を持っていました。そんなワケで、当時のイランが革命で混乱していることを見計らってアメリカ・ロシアの支援の下でイランに侵攻します。

 

ちなみに、革命前は親米のイランでしたが、アメリカはイラン=イスラム革命後は他宗教に対する排他的な思想を有するホメイニ政権に危機を感じて、今度は逆にイラクを利用しすることでイランを潰しにかかるのです。

 

こうしてはじまったイラン=イラク戦争は、結局決着がつかないまま双方がへとへとになるまで8年間の泥沼の闘いとなりました。

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イラククウェート侵攻、そして湾岸戦争

さて、思うようにイラン攻略がならず、サダム・フセインはイライラします。
中東地域は大部分がアラブ民族の国ですが、イランは大多数がペルシャ民族です。
その為、イラクサダム・フセインの立場としては、イラン=イラク戦争ペルシャ勢力からアラブ勢力を守ってあげているという自負がありました。

 

それにも関わらず、周りのアラブ諸国イラクに十分な応援をしてくれなかったことにサダム・フセインは不満を抱くようになります。
特に、すぐ隣の石油を持った裕福な国であるクウェートが支援してくれないことに腹を立てました。さらに、イランとの長期戦争の為にイラクは経済が停滞します。

 

こうして、イラクは1990年に石油や利権を目指しクウェートに侵攻します。

 

この侵略行為は国際社会から非難を受けます。そして、アメリカを中心とした多国籍軍がイランと闘うことになります。これが、湾岸戦争です。

 

戦争は数か月でイラクの停戦合意、クウェートから撤退という形で幕を下ろしました。
ちなみにこの時のアメリカの大統領がブッシュ(パパ)です。

 

かつて、イラン革命でのイスラムの拡がりに危機感を持ち隣国のイラクを利用してイランを潰そうと図ったアメリカですが、イラン・イラク戦争が長引き、更に冷戦による財政危機に陥った事情から、今度は石油事業を掌握する目的で、イラクから搾り取ったるぜ!という方向に転じます。

 

とはいえ、ブッシュ大統領は、多分フセイン政府は自然に倒れてイラク自身で新しい政府を作るでしょう。だから、深入りするのはやめておこうと考えました。しかし、フセイン政府はアメリカに加担したイラク人を粛清するなどして、生き残りました。

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同時多発テロ、そしてイラク戦争

さて、イラン=イラク戦争が長引く中、近くの親米で絶対君主制サウジアラビアは2か国に対して警戒します。サウジアラビアは、イラン革命で台頭してきたシーア派ではなく、スンニ派が多数を占めますし、イラクの侵略の脅威にも対抗する必要がありました。そこで、湾岸戦争後もアメリカ軍がこの土地に駐在します。
しかし、外国軍の駐在を要請したサウジアラビア政府の権威は失墜しました。
とは言え、名目的にはムスリムである自国の為政者を打倒する「革命のジハード論」は民衆の支持が中々得られませんでした。

 

そんな中、台頭したのがオサマ・ビン・ラディン率いるアルカーイダでした。彼は、サウジの大財閥の御曹司です。アフガンで義勇兵として戦った後、サウジに戻ってきた彼は非イスラム教徒がアラビア半島に駐在することは、預言者ムハンマドによって禁じられているとみなし、世界中のムスリムに対してアメリカへのジハードを呼びかけるのです。


その結果、同時多発テロが起こりました
また、彼はテロ攻撃を行った動機について、以下のように述べました。

1982年、アメリカはイスラエルレバノンを侵略することを許可し、侵略を助けるためアメリカ第6艦隊を派遣した……レバノンの破壊されたタワーを目にした私の心に、我々も迫害者たちを同じやり方で罰するべきだという考えが浮かんだ。我々はアメリカのタワーを破壊して、我々が体験したものの一端を迫害者たちにも体験させるべきであり、そうすることで彼らが我々の女や子供を殺すのを思いとどまるようにすべきだと考えた

アメリカ同時多発テロ事件 - Wikipedia

まさに、報復による報復…。負の連鎖であり、根が深い。

 

アメリカも当然黙っていません。アメリカの世論をイスラム原理主義による過激思想を打倒すべきと操作して煽っていきます。ときのアメリカ大統領はブッシュ。湾岸戦争の時の大統領の息子でした。

 

このブッシュ(Jr.)はイラン・イラク北朝鮮テロ支援国家、「悪の枢軸」と名指しで非難。テロとの戦いを宣言します。
アメリカは国連の反対を押し切って、強引にイラク攻撃を開始。こうして、イラク戦争が始まりました。


アメリカの理屈としては、フセイン大統領が大量破壊兵器保有しいつ攻撃するか分からないので先手を打つという論理でした。ところが、大量破壊兵器など発見されないとなるや、イラクに民主主義をもたらす為と戦争の大義名分を変えてしまいました。

 

このイラク戦争フセインは捕まり、イラク国民を虐殺した罪で死刑判決が下り、2006年に死刑が執行されました。

 

こうした流れをみてみると、アメリカが湾岸戦争以降、イラクを介して中東の石油戦略に参入したとみることができます。

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おわりに

如何でしたか?

見誤っている個所もあるかもしれませんが、今回、僕自身非常に勉強になり、目からウロコの部分が多くありました!

僕は、サダム・フセインとかイラクのことをイスラム教の宗教特性が強い国だと思っていました。そして、中東の恐ろしい背景のど真ん中にイスラム教というものがあると思っていました。

 

サダム・フセインは自分の権力維持の為にしきりと「ジハード(聖戦)」を叫んでいましたが、むしろ彼は宗教国としての道を歩み始めたイランに敵対するなど、どう考えてみてもイスラム教とはかけ離れた思想の持主であることが分かりました。何も知らなかった僕は、そういうことだったのか!?と感動を覚えました( ゚Д゚)

 

そして、やはり中心はアメリカだったかぁ~と感じました…
やはり、イランもイラクアメリカさまに翻弄されまくっていたんですね。真実を知れば知るほど、長いモノ巻かれずに逆らう姿勢がどれ程、恐ろしく大変な事なのかを痛感させられました。

 

パワハラを受けて、障害者となった自分とイラン、イラクの立場が少しだけ重なり、何ともやりきれない気持ちになりました。
理念を貫きボロボロになるか、あまり意固地にならずに現状を柔軟に受け入れる姿勢をもって、時には死んだように長いモノに巻かれながら、ぬるりと生きるか…

 

当たり前かもしれませんが、テロ組織(悪者) vs. 国家(正義)という単純な形ではないことがよく分かりました。
本当にどちらも悪くなんてない。ただ双方が違う価値観をもっているだけ。

 

そんな時に相手を潰してしまうのではなく、お互いを尊重して共存する為に何ができるか?甘いものではないですが、そんなことをみんなが考えらえる世の中だったらいいのになと思いました。

 

答えが出ない事をあれこれ考えてしまう今日この頃でした(笑)

 

長々とご覧いただきありがとうございました。

 

中東情勢の入門者の方は、コチラの書籍がとっても分かりやすくおススメですので、ご興味があれば。

 

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