面白い哲学【私とは何か?】~科学やら古代インド哲学~

今回は、面白い哲学シリーズ第3弾です!

 

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過去記事は、コチラ!

面白い哲学【分かりやすい"空"の思想】 - 元うつ社員が挑む、キャリア形成改革

面白い哲学【唯物論とか観念論とか】 - 元うつ社員が挑む、キャリア形成改革

 

前回の記事では【空】の思想ということで、

 

世の中は空だ!!
僕らが、あると信じていたあらゆるものは、本当は捉えられることができないし、実在する確かなモノではなかったんだよーん( ゚o゚)ハッ

 

石ころだって、会社だって、お金だって、おけらだって、みーんな細かく分解して行ったら、それらの構成要素だけしか残らず、実体を見つけ出すことが出来ないんだよーん。

 

なーんて話をさせて頂きました。

 

じゃあ、人間は?
僕らを構成要素に分解していったら??
そのカケラの中に「私」はあるの?

 

今回は、そんなコトを哲学していきたいと思います。

 

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「私」を「私」たらしめるモノを考えてみる 

『私が存在する』ために不可欠なモノって一体なんでしょうかね?

 

例えば、「職業」や「肩書き」などのいわゆる「社会的地位」といったもの。

 

これが消滅したら、「私」はいないくなるのでしょうか?
僕は、現在無職です。。
社会的地位にすがりまくってましたが、こうして記事を書いている『私』は確かに存在しているように思います。

 

社会的地位がなくなったら、自分は自分でなくなると考えている方もいるかもしれません。しかし、社会的地位がなくなった正にその瞬間に、その人にとっての「私」が消滅していまうということはどうもないように思われす。(如何でしょうか?)

 

では、次に「私は元気で社交的な人間だ」なんていう人間に対する「性質」や「個性」などはどうでしょうか?

 

そのような「性質」や「個性」は、時間と共に変わりうるものであると思われますので、やはりこれも「私」が存在する為の絶対必要条件ということは出来なそうです。

 

でも、「肉体」はどうでしょうか?

 

うーん。例え、手や足が切り落とされたとしても、「私」までは消滅しそうにありません。これも、「肉体」=「私」ということも出来なそうですね。

 

では、「」ならばどうでしょうか?

 

むむむ。何だか、いよいよ話が難しくなってきましたね。
ですが、脳については、ものすごく簡単に言えばつまるところめちゃくちゃ高度な情報処理を行う機械のような役割をする機能ですよね?

 

ある刺激を受けた際に、脳細胞が複雑な信号をやり取りして、生物学的に合理的な反応を返す為に命令をだす司令塔としての機能が脳だというのが素人ですが僕の理解です。

 

であるならば、どうも「脳」が「私」とも言えないような気がします。

 

だって、そもそも「私」にとっては、「脳」が実際にやっているようなありがたい高度なこと(怪我したら血を出すとか?)のほとんどが、はっきり言って、「知らんがな!」って感じじゃないですか?

「私」とは無関係に、肉体の為に勝手に働いてくれているのが「脳」であり、そのことからも、「脳」は「私」とは随分とかけ離れた存在のように思います。

現代科学では「私」が存在する為の条件など語れない

結局のところ、「私」が存在する為の条件とは、「痛み」を感じたり、「色」をみたりするような意識現象があることと言えるのではないでしょうか?

 

目の前にあるものが実在するかなんて結局は分からない。
痛いとか熱いとか感じさせるもの自体が本当は実在しないのかもしれない。
全ては夢なのかもしれない。

 

ですが、目の前のものをみたり、痛いとか、熱いとかを感じる【意識現象】自体は実在しているのではないでしょうか? 

 

それだけは、疑うことの出来ない実在だと言えませんか?
ですが、とても重要だと思う点を強調させて頂くならば、他人の意識現象は確認できません。

 

もしかしたら、アナタ以外の人間は、ものをみたり、痛いとか熱いとかを実は感じているようにだた振舞っているだけかもしれませんよ。

 

つまり、合理的な脳の指令に基づき、熱いものに触れれば、「アツい!!」といって手を引っ込めはしますが、その時にあなたが感じる「アツい!!」という意識現象を他者が経験しているか否かは誰にも確認が出来ません。

 

脳による反応を科学的に解明してもダメです。
脳の反応をみれば、熱いものに触れさせた時には、熱い時に起こる脳の反応が確認できるでしょう。

 

ですが、残念ながらそこまでです。
どんな科学理論でも本質的には、

 

「世界は、物質Xの集まりで出来ている。そして、物質Xは、法則Yによって運動したり変化をするのだ!」

 

と語っているに過ぎません。
つまり、科学が進歩していけば、それこそ人間の(複雑な脳の構造も含めて)全ての行動について合理的な説明を行うことのできる法則がみつかるかもしれません。
ですが、それでもなお、意識現象についての説明は全く出来ません。

熱いと感じる時に起きる反応データがいくら科学的に確認できても、熱いとあなたが感じた意識現象と全く同じ感覚を伴った意識現象を、その人も経験しているかなどは科学では到底解明はできないです。

 

もしかしたら、あなたがアチチと感じる時の感覚は、他者にとっては冷たッと感じる感覚を体験しているかもしれませんよ。

 

私とは認識するもの

古代インド哲学の最大の哲人で「聖人」とも称されるヤージュニャヴァルキヤは、

 

"私とはこの【意識現象】を認識するもの"

 

と言いました。また、彼は「私」のことを「アートマン(真我)」と呼び、彼によればこの世は全てアートマンに他ならない。それは唯一のものである。

しかし、一方でアートマンは認識の主体に他ならないので、把握することも表現することも究極的には不可能であるとのことです。

 

以下ウィキペディアよりヤージュニャヴァルキアの記事を引用します。

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ヤージュニャヴァルキヤは、『ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド』など初期のウパニシャッド(奥義書)に登場する。彼の哲学の中心はアートマン(真我)論である。彼によれば、この世界はすべてアートマンにほかならない。それは唯一のものである。しかし一方では、アートマンは純粋な意味で認識の主体にほかならないのであるから、決して対象にはなりえない。したがってそれは把握することも表現することも究極的には不可能であることを示し、アートマンは「~ではない、~ではない」(ネーティ、ネーティ)としか言いようのないことを説いた。(wikipediaより引用) 

 

うーん。。難しいデスね。

 

難しいけど、どうやら私(アートマン)とは、認識をするものだけど、実体を捕まえることができず、どこまでいっても「~ではない、~ではない」としか言いようのない存在らしい。

 

どういうことだろう?
つまりは、こういうことではないでしょうか。

 

私とは、認識するもの。しかし、認識するもの自体は決して認識することが出来ない。

 

何故なら、認識するものを認識できたとしたら、その認識できたに対応する認識するものが必要となり、議論続けると無限ループ(無限遡行)となるからだ(笑)

 

つまり、私たちは、認識するものとしか言いようがなく、それ以上は突っ込めないという話のようです。

 

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自分探しは必要か?

ホントウの自分を探す。
自分に合った仕事を選ぼう。
自分に合った結婚相手を探そう。
自己理解を深めることが、幸せになるコツだ!

 

こんな風に話す人がいても全く違和感を持たないと思います。
だよねー。でも、本当の自分を理解するのは難しよねーって感想を持つくらいでしょうか? 

 

一方で以下のように言う人がいたらどうでしょうか?

 

自分なんてどこにも存在しないよ。
まぁ強いて言うなら、今腹減ったと認識しているのが俺かな。

なんか、訳わからないやつだなー気色悪っみたいに思いますかね?
常識的にはそうだと思います。

 

ですが、まさにこの古代インド哲学と現代の常識のずれがあらゆる不幸を生みだす根源であると言えそうです。

古代インド哲学の「踊り子」と「観客」

何かの舞台をみているところを想像してみて下さい。

 

「踊り子」の演技が素晴らしく、あまりに優雅でみているこっちも気分が高揚するということや、また、「踊り子」があまりに不憫な演技をすると今度はもの凄く切なく、悲しい気持ちになり感情移入をしてしまうということはよく想像ができると思います。

 

ですが、どんなに「踊り子」が優雅であろうが、憐れであろうが、みている「観客」にとっては、直接何も影響はしないはずです。

 

ですが、あまりに感情移入して、完全に「踊り子」と同化してしまうと、舞台の最中にテンションが上がり過ぎたり、悲しみに打ちひしがれたりする状況が生まれます。

 

これは、幼い子供がぬいぐるみを傷付けられて、自分を傷付けられたと思ってしまうのと似ています。

 

子供は、ぬいぐるみが自分でないことは大きくなればすぐに理解しまし、舞台が終われば、踊り子の気持ちの余韻は次第に静まります。

 

ですが、現代人は今度はぬいぐるみや舞台の踊り子ではなく、外見や肩書き、他人からの評価など様々なものの中から自分と同化するものをみつけるようになり、それらに捉われるようになっていきます。

 

外見や肩書き、他人からの評価 = 踊り子

私              = 観客

 

古代インド哲学では、「私」=「アートマン」は観客であり、人生で経験するあらゆるものは客席からながめる「踊り子」の存在に過ぎず、よって何者にも傷付けられるものではないと主張されているワケです。

 

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最後に

如何でしたか?

 

【私とは何か?】と言う点について、哲学して参りました。

 

私とは、意識現象を認識するもの。

但し、私そのものは認識できない決して捉えられない存在。

 

意識現象は殆どは変えられないが、考え方や捉え方を変えることで、目の前のものをどう受け取るかを変えることは出来るかもしれません。

 

つまり、あるヒトにとっては嬉しい出来事があるヒトにとっては逆に悲しい出来事になるということはあるけど、解釈自体は変えることが出来る。

 

そんな風に思いました。

 

因みに、考え方のクセを変えるには、認知行動療法が有効であることが分かっています。
興味がございましたら、コチラの記事もご覧ください。

www.piyotama.site

 

また、今回の記事のようなことをもっと詳しく知りたい方は、
👇の書籍をおススメ致します。

 

最後までご覧いただきありがとうございました。

 

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